江國親子2013年05月30日



 江國香織の本を買ったつもりで間違って買ってしまった「お父様(江國滋)の本」を今、読み終わった。予想外におもしろい本だった。江國香織の独特の文体の一部は、父親から受け継いだものだということがはっきりとわかった。テンの使い方、状況のすべては説明しないでおいて引っぱるテクニック、オリジナリティあふれる文章のつなげ方、などなど。彼女はお父さんの書いた文章を一生懸命に読んで学んでいたのだろう。僕はこの親子のことがいっそう好きになった。

 江國滋著『阿呆旅行』の巻末にある「解説」には、宮脇俊三氏の書いたこんな文章がある。

 まず第一に挙げたいのは文章のうまさである。読書子に向って言うまでもないことだが、文章がうまいというのは単に文章作法に長じていることではない。これは文芸の根源にかかわる問題で、筆者の人間としての価値と文章の価値とが一体もしくは対等であるということだ。人間はくだらないが文章は一級などということはありえない。第一級の文章が書ける人は人間としても第一級なのであって、小学生の作文の点数とはちがう。

 これには私もまったくもって同感だ(あ、「僕」が「私」に変わった!)。文章には、その人の頭の中にあるものが比較的ストレートに出てくると思う。たとえば、このブログの記事でも、夜中に書かれたものはたいてい酒を飲みながら書いたもので、翌日には書いた本人もうんざりしてしまうような内容のものがけっこうある。あとから消してしまった記事もいくつかあったはずだ。

 文章を書くという行為は、ある意味そのときの自分をさらけ出す行為だと思う。感じの悪いおじさんが書けば感じの悪い文章になるし、痛いおばさんが書けば痛い文章になる。あさましい老人が書けばあさましい文章になるし、調子にのった若者が書けば調子にのった文章になる。そして他人に対する文句の文章は、たいていは自分のことを棚に上げている。文章を書く「技術」がなければ、それはさらに強調されることとなる。

 こんな文章を僕は、性懲りもなくまた酒を飲みながら書いている(あ、「私」が「僕」に戻った!)。





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